岡潤一郎というジョッキーを、私たちは忘れてはいけない

岡潤一郎騎手の軌跡:デビュー年44勝で新人賞受賞、24歳での急逝まで。同期・千田調教師が語る – 競馬 – Number Web – ナンバー
昨日、1月30日。
その33年前の、同じ日。
日本競馬の歴史において、
決して忘れてはならない、ひとつの悲劇が起きた。
1993年1月30日。
京都競馬場で行われた一つのレースが、
一人の若き天才ジョッキーの命を奪った。
その名は、岡潤一郎。
才能が集った“黄金世代”

岡潤一郎は1988年にJRAデビュー。
1987年にデビューした武豊の、ちょうど1年後輩にあたる。
同期には、
スプリント界の名馬ダイタクヘリオスの主戦を務めた岸滋彦。
そして、メジロマックイーンで菊花賞を制し、
GⅠ初制覇を成し遂げた内田浩一。
今振り返れば、
まさに“才能が集った世代”だった。
その中でも、岡潤一郎の存在感は群を抜いていた。
デビューから、一直線に頂点へ

岡潤一郎はデビュー初年度から非凡な才能を発揮し、
1988年、最優秀新人賞を獲得。
翌1989年には46勝を挙げ、
着実に、しかし確実に、
トップジョッキーへの階段を駆け上がっていく。
そして1991年。
リンデンリリーとのコンビで、エリザベス女王杯を制覇。
GⅠ初制覇を、デビューからわずか6年で成し遂げた。
この時点で通算225勝。
その才能は、
「将来は武豊を超えるかもしれない」
とまで言われる存在だった。
“ジュンペー”という愛称

岡潤一郎は、
ファンから親しみを込めて「ジュンペー」と呼ばれていた。
屈託のない笑顔。
気さくな人柄。
それでいて、馬上では大胆かつ繊細。
勝負所での思い切りの良さと、
馬のリズムを壊さない柔らかな騎乗。
多くのホースマンが、
彼の将来を疑わなかった。
だが──
運命の日は、あまりにも突然訪れる。
1993年1月30日、京都競馬場

京都競馬場・第7レース。
岡潤一郎は、
1番人気に支持されたオギジーニアスに騎乗していた。
4コーナー。
その瞬間、オギジーニアスの左後脚が故障する。
馬はバランスを崩し、転倒。
岡潤一郎は落馬した。
転落の衝撃で、
ヘルメットがずれる。
その直後、
後続を走っていたシリウスギンガの脚が、
ヘルメットの外れた頭部を直撃した。
すぐに救急搬送。
しかし、事態は極めて深刻だった。
懸命な治療、そして…

診断結果は、
外傷性くも膜下出血。
頭蓋骨骨折。
脳挫傷。
脳内出血。
意識不明の重体。
医師や関係者による懸命な治療が続けられたが、
肺炎を併発し、高熱に苦しむ日々が続く。
そして、1993年2月16日。
岡潤一郎は、
24歳というあまりにも若すぎる年齢で、
この世を去った。
語られる“もしも”

この事故には、
一つの、やるせない余談がある。
元ジョッキーの藤田伸二。
本来、この日のオギジーニアスは、
藤田が騎乗予定だった。
しかし、東京競馬場での先約があり、
その騎乗は叶わなかった。
後年、藤田は語っている。
「あの事故があって、とても悲しい気持ちになった」
「今の医療なら、岡潤一郎の事故レベルで
命を落とすことは、ほとんどない」
時代が違えば。
もし、ほんの少しでも遅い時代だったなら。
そんな“もしも”が、
今も胸を締めつける。
岡潤一郎は、武豊を超えたのか
岡潤一郎は、
本当に武豊を超えたのか。
その答えは、誰にもわからない。
だが、確かなことが一つある。
彼は、
競馬界が失った、
紛れもない才能だったということ。
忘れないということ

NO GUTS,NO GLORY. : 岡潤一郎騎手「追悼展」 特派員リポート! – livedoor Blog(ブログ)
そして、
今を生きる私たち競馬ファンにできることは、ただ一つ。
この1月30日を、
決して忘れないこと。
ターフを駆けた、あの姿。
馬上で見せた、あの笑顔。
それは今も、
多くの競馬ファンの記憶の中に、生き続けている。
岡潤一郎騎手の
ご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


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